創業ストーリー

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創業ストーリー 2018-01-04T19:08:48+00:00

『ITとは全ての人が幸せになるために存在する』

ITとは全ての人が幸せになるために存在する

高円寺のマンション

高円寺

27歳。私は東京で現在、東証1部に上場しているディップ株式会社で課長職を務めていました。商材には「バイトル」「はたらこねっと」と聞くと分かって頂ける方も多いと思います。当時代理店を管理する部署で働いていたところ、遂に夢であった起業をする事となったのです。

リーマンショックが起きてスグ、私は高円寺北公園にあるマンションの1室でフリーランサーとしてビジネスをスタートしました。今の様なオシャレなオフィスがある訳ではなく、1R(7畳)からのスタートでした。

時は100年に1度と呼ばれるリーマンショックの中で顧客0からスタート。スグにうまく行く程ビジネスは甘いものではありませんでした。今の様な会社理念もなければ、売上の軸もない状況からのスタートだったので、程よく時がたった頃ついに貯金が0となり廃業の危機を迎えることとなったのです。その後、どうやって会社を発展したのか?その前に、まずは高校生の頃にさかのぼってお話したいと思います。

東京のピザ屋は儲かる?

東京のピザ

現、代表取締役である西田が1996年、まだ高校の時までさかのぼります。
大好きなテニスに朝から晩まで明け暮れ、平凡な日々をルーティンで過ごしていたある日、私の人生を変えたで話と出会いました。

東京でお店を開きたいと言って高校中退した先輩の話。
その先輩はある日突然、「オレ、今日から学校辞めて東京でお店始める」と言って学校を辞めたらしいのです。当時高校生だった私は衝撃を受けました。自分の頭の中に高校生で社長になるなんて一切思ったこともなかったからです。その先輩は東京でピザ屋をオープンして成功していると言うのです。

その日から私はおぼろげと「起業する」という事が頭の中に存在してきたのです。
「東京は夢がかなう場所」「東京は若くても関係ない場所」「東京のピザ屋は儲かる!!」

大学で全てが変わる

大学

大学に進学した私は、親が学費を負担してくれている負い目から、遊びもせずに勉学とアルバイトに明け暮れました。今思えば現在の自分よりも寝る時間が短かったかもかもしれません。

居酒屋、レンタルビデオ。
とにかく必死になって取り組んでいく中でふと思い出したのです「東京のピザ屋は儲かる!!」

大学2年のその日から行動が全て変わりました。時給600円台のバイトから家庭教師、家電量販店等、時給が高いかインセンティブが付く仕事を選んだのです。理由は起業資金を少しでも稼ぐため、少ない時間でも効率よく稼ぐヒントがそこにあると思ったからです。

その中で現在の私を構築している仕事に出会いました。
牛乳を配達する家庭の契約を取ってくる営業でした。お客様にサンプルを飲んで頂き、瓶を回収する際に契約をもらうと言うものです。

短時間で効率よく稼げ、契約したお客様がずっと続けて飲んで頂ける嬉しさを学びました。この営業が売り切り型だったとしたら、私の営業に対する考えは大きく変わっていたと思います。

営業は大変でしたが、現在は亡くなっていますが当時の社長からは「頑張ってやっとるな~」「また契約とってきたのか」この短い一言に嬉しさを覚えいつも背中を押して頂きました。今の社長、当時は専務でしたが仕事のやり方や励ましを頂いたり、事ある毎に私の話をシッカリ話を聞いて頂けました。

営業の道に進もうと思ったのもこの出会いがあったからに他なりません。

なにわ金融道!

なにわ金融

将来起業という目標もあり、大学生の時に「売るのが難しい営業」に就こうと思っていました。若いながらも教授やネットなどで調べたところ「投資営業=嫌われる営業」だと。この会社で売れるようになれば自分で会社をやっても大丈夫だと思い入社しました。東京本社での勤務希望でしたが、大阪に配属され大阪の商いを見る良い経験になりました。

新人100名の中で5位以内をキープし2年間、必死に会社に噛り付きました。2年間経ったある日突然、

「東京のピザ屋は儲かる!」

かつての夢である東京で会社を起こす夢が自分の中で大きくなっていき、支店長に話をして円満退社する事となりついに東京へ足を運んだのです。

東京はハードルが高かった

大阪から東京に出てきて半年間就職活動を行い六本木に本社を置くディップ株式会社に入社しました。
当時は東証マザーズに上場しており、新卒100名、既卒100名を大量募集していたタイミングに運よく紛れて入社することが出来ました。

でも東京の営業はキツかった。BtoCからBtoBへの移行という事と東京は本物の提案が試される市場だった為、お客さんと仲良く話をすれば受注が頂ける様な働き方が全く通用しなかったのです。

大した結果を残す事が出来ず1年経って、代理店営業部への移動を命じられました。自社の代わりに代理店にバイトルを売ってもらう部署で代理店を管理する渉外を担当する事になりました。
この部署移動が自分で会社を起こす近道となったのです。

ターニングポイント

ターニングポイント

どうせ東京で力をつけるなら、IT業界を目指すことに、しかも「ベンチャースピリットがある上場会社」そんな条件ですぐに決まるはずもなく半年間、無職となってしまいました。前職の給与が高かったこともありバイトを一切せずに打ち込んでいた事が、奇跡を呼び、当時中途100名、新卒100名採用していたディップ株式会社に拾ってもらう事となったのです。

しかしBtoCからBtoBの壁は厚く、最初の1年目は散々な結果。やる気だけが空回りして結果が出せなかったのです。そんな中でも前に進む気持ちだけは消えていませんでした。
「今はうまくいかなくても20代で必ず起業する!・・・」

そんな中転機が起こったのが、代理店営業部への部署移動でした。様は売れないので左遷です。しかしそこで運命的な出会いがありました。
「西田君は何を焦っているの?今何をするのか?1年後は?そして自分の好きなことをすればいい。3軸用意しなさい、一緒にやろう!」

リクルートを卒業して海外を見てきた上司は、メチャクチャ勉強している人で会話の引き出しが多彩な人でした。代理店を一緒に周っていく中でWin-Winとは何かを教えてもらいました。

その甲斐あって、当時、年齢が高い代理店営業部にて27歳の最年少課長へと昇進したのです。管理職になるとクライアントが話す内容が劇的に変わりました。現場相談から経営相談へと言う事です。今まで興味があった分野なのですぐに付いて行く事が出来ました。

ついに企業をする準備が出来た訳です。

フリーランスで独立。しかし・・・

フローチャート

高円寺の北公園横のマンションで独立しました。しかしリーマンショック後の市場はとても厳しく、求人の営業に行っても逆にSTAFFを引き取って欲しいと全く話になりませんでした。わずか半年で廃業の危機を迎えたのです。いつも奇跡はそういった時に起こるものです。ディップ株式会社で担当していた代理店3社から同時に電話が鳴ったのです。

私は先輩経営者のプロジェクト依頼を引き受け確実に顧客を増やしていきました。そんな中、現在営業責任者をしてもらっている上杉が大手派遣会社を退職し手伝ってくれることになったのです。元々、ディップ株式会社時代に私が担当していた代理店の窓口担当でお世話になっていました。私がディップ株式会社を辞めて、上杉も辞めていたのです。

そこから売上を確実に伸ばしていき、いよいよ次のフィールドに移行する時が来ました。経験も知識は全くありませんでしたが思いだけはシッカリと込めた経営企画書を新宿政策金融公庫に持ち込みました。伸ばしていきたいという思いと今までの実績が評価され350万円の融資を受けることが出来ました。2年が経った時の事、いよいよ株式会社化をする時が来たのです。

会社に込めた想い

フリーランスから株式会社にする際、1つ解決しなければならない問題がありました。

「ITは何の為にあるのか?」と言う事です。我々が従事している仕事の本当の意味。それが明確になっていなくて何が株式会社だ!と。
自分に自問自答しました。

遠距離恋愛で離れた距離の恋人同士が、毎日顔を合わせ話をする事が出来る・・・。子供の日々成長を遠く離れた親に写真を送る事が出来る。しかも一瞬で。
物を比較検討できるようになり、安く買えるようになり、家に居ながらにして多くの商品を見たり自分が思いもしなかった商品・サービスに出会う事が出来るようになった。しかもとても簡単に。昔よりも買い物が楽しくなっているかもしれない。友達と何10年会ってなくてもいつも会っているかの如く、相手の事が知れて、かつコミュニケーション迄とれる。しかもその友達と新しい発見までできる。

そこで1つの答えを出しました。
「ITとは全ての人が幸せになるために存在する」

企業理念が決まりました
「全ての人と企業をHAPPYに」

クライアントだけではなくサービスの利用者にも喜んでいただくこと、ビジネスはWin-Winで形成されている事、HAPPYを配った数だけ弊社の売上が上がる事。今まで勉強してきた事をより多くのクライアント提供しながら、世の中にHAPPYを増やしていきたいと強く思い株式会社オリジナルプランを設立する事となってたのです。

株式会社オリジナルプラン

株式会社にした私は事務所を契約し、STAFFを募集するために求人を始めだしました。マンションカンパニーからの脱却を行ったのです。今思えば借入額の割には大きな投資をしたと思っていますが、この時開拓した顧客が現在の当社を支えて頂いているのです。

それは社員にも強く求めて生きましたが、出来たばかりの小さな会社。高く、強い志を持った社員は集まるはずもなく入社しては辞めていきました。しかし、方針を変えるつもりはなく、更に半年に1度社内改革をすることにしました。改革をする度にSTAFFは辞めていきましたが、更に改革を続け、採用方針もそれにより変化し続けました。それは少しづつ確実に浸透していき、クライアントからの支持も少しづつ上がっていきました。

2017年夏、遂に移転を伴う改革に動き始めました。
「求人映えするフォトジェニックなオフィス」をテーマにオフィス探しをはじめ、同年11月移転をし新しいオリジナルプランの運営を始めたのです。

神田に移転。本社をKanda Labと名称変更

ドリームウォール

クライアントの為に自社を使って実験、検証を繰り返す。今までのそんな考えがオフィスを大幅に改装することで次のフィールドに移る事となりました。神田本社をKanda Laboと名称変更し、クライアントとSTAFFの為のオフィスが完成したのです。

今まで何でもありだった社内ルールを制定し、「全てのSTAFFが働きやすオフィス」を目指しました。これは求人原稿と実際に働いてからのギャップ0を実現するために重要なことでした。給与改定もすることで、今回のHalf a year revolution(半年改革)は始まったのです。

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