SDGsやESGなど経営に関して新たな概念が登場している今、注目を集めているのが人的資本という考え方です。人的資本の明確な定義はありませんが、個々人の専門的知識や能力や素質など、経済的な価値を持つ人間の特性のことを指します。経営の高度化、複雑化により、従業員個々のスキルやノウハウ、それに伴う社内文化などが企業の成果に大きく影響するようになりました。そのため人的資本の考え方は経営において不可欠な要素となってきました。さらに、東証のCGコード改訂に伴い、上場企業は有価証券報告書への記載が予定されます。採用や企業イメージの観点から人的資本の取り組み強化は非上場企業も必須です。しかしその考え方は抽象的で、何を目標にして具体的にどのような施策を講じることで実現できるのかわかりにくい部分もあります。本記事では注目度の高い人的資本について、具体例を用いてわかりやすく解説します。
そもそも人的資本とは?
経営における重要な要素として「ヒト・モノ・カネ・情報」が挙げられますが、その中の一つである「ヒト」に焦点を当てた概念になります。ヒトを投資の対象、つまり資本として捉えた経済用語であり、個人が身につけているスキルや性格、資格など、経営に還元される要素全てを指します。この概念が注目されるようになった背景として、サービス業を含んだ第三次産業の需要拡大が挙げられます。サービス業の代表格であるコンサルティング業界は近年大幅に規模を拡大しており、2021年度には1.5兆円、2017年からの伸び率は1.6倍にもなり、成長産業であることがうかがえます。これにはDXトレンドやコロナを契機とした経営構造の見直し、ITの需要増などの要因が影響しており、今後も拡大する見通しです。そのため経営やITについての専門知識やスキルを有する人材の価値が高まってきていると解釈できます。そのため、採用、教育、研修など、ヒトのために投資をすることが企業の成長という結果をもたらすという考えが浸透しているのです。
なぜ人的資本の考え方が浸透しているのか
人的資本の考え方が注目を浴びているのには、主に4つの理由が挙げられます。
- 投資家の注目度拡大
- 日本政府の後押し
- 東証のCGコード改定
- 有価証券報告書への記載
一つ目は投資家の注目度が拡大していることです。海外では開示が義務化され、日本企業にもこの潮流が浸透するのかどうかは投資の判断にも大いに影響する要因になります。二つ目は日本政府による後押しです。人への投資の抜本的強化を推し進めており、具体的に経済産業省は「情報開示」と「人材戦略」の両輪による取り組みを推進しています。そのため、経営戦略と連動した人材戦略をどう実践するか、その上で情報をどう可視化し、投資家に伝えていくかという議論が重要になっていきます。三つ目は東証のCGコード改定です。2021年6月のCGコード改定により、「人的資本」が明記されることになり、理由の4つ目でもある有価証券報告書への記載欄も新設されます。この影響は上場企業に限った話ではなく、非上場企業でも議論は活発になっています。情報の開示目的が投資家へのものに限らず、優秀人材の確保のためでもあるからだ。上場、非上場に限らず働く人を資本として活かしていく傾向が社会全体的に高まっているのです。
ではなぜ経営だけでなく社会全体に人的資本の考えが広まるのか、その要因についても解説しましょう。
一つ目に技術革新やグローバル化の進展によって、人々が持つ知識やスキルが経済的な価値を持つようになったことが挙げられます。企業が競争力を維持、強化するために、優秀な人材の確保、育成が必要とされるようになりました。
二つ目に労働市場の変化によって、人材の流動性が高まったことが挙げられます。一方で、企業側は従業員の雇用を安定させることが必要になり、そのために従業員のスキルアップやキャリアアップが必要不可欠です。また、従業員自身も自分のキャリア観に合った企業を選ぶことができるため、企業が従業員のキャリア実現に適切な環境を用意できるかも重要な視点です。
三つ目に人的資本の考え方が、経済学や経営学の分野で研究が進んでいることが挙げられます。専門家や研究者たちが、人的資本の重要性を指摘し、その有効性について認知度が高まっています。
具体的な上場企業の取り組み
伊藤忠商事
伊藤忠商事は就活生からの人気の高い大企業です。そんな伊藤忠商事は人材戦略を経営戦略の一つとして明確に打ち出しています。2022年度の中期経営計画には以下のような記載があります。仕事に求められる「厳しさ」の中にも多くの働きがいを見出す「厳しくとも働き外のある会社」の実現を経営トップはコミットしています。現場主義の徹底の下、全社員が能力を最大限に発揮できる環境づくりは、社員のモチベーション・貢献意欲の向上をもたらすだけでなく、その成果を通して社外からの評価にも繋がり、優秀な人材の確保を可能とする好循環を生み出しています。
このように、現場の社員の能力の最大化が最終的には優秀な人材確保につながると明記し、人材戦略の重要性を示しています。
以上のような人材戦略を実現するために、伊藤忠商事は以下の六つの項目を掲げ、それらを実現することで労働生産性向上による企業価値の拡大を図っています。
VRを活用した次世代採用を行い、コロナ後の学生の就職活動における選択肢の幅を拡大しています。その結果として、主要7機関における就職人気ランキングで1位を獲得しています。
朝型勤務制度を採用し、夜型の企業体質をより効率的な朝型勤務へと移行する取り組みを行っています。その具体例として、20時以降の残業禁止や、8時前に始業した社員への朝食の無料配布、割増賃金支給が挙げられます。また、朝型フレックスタイム制度や在宅勤務制度にも取り組んでおり、自由な働き方を推進しています。そのためにも、申請書の電子化やRPA導入推進を行い、社内のICT基盤を拡充させています。
これらの取り組みにより業務効率化や時間の有効活用が実現し、業務、生活の状況に応じた柔軟な働き方の選択肢を拡充しています。結果的に限られた労働時間を高付加価値業務に配分しています。
2021年、健康経営への投資実績は約1000万円を超え、従業員の健康力向上への取り組みの姿勢が見て取れます。例えばがんと仕事の両立支援施策を行い、治療と仕事の両立の個別支援体制を構築しています。また、残された家族の就学、就労支援も実施するなど、手厚い制度も設けています。このような取り組みを行うことで安心して働ける環境が整備され、将来への不安が軽減し、人材の長期定着も狙えます。また社員の健康を保持することで日中の労働生産性を向上させることができます。
個々の成長を踏まえた成長機会の創出を目指しており、社内公募制度を拡充させることで社内でも望んだキャリアを歩めるような環境を整えています。また女性活躍推進のために計画的な業務経験付与を通した次世代マネジメント層の育成や、共働き世代を支える制度として育児両立手当、不妊治療のための休暇などを取り入れています。他にもミドル、シニア社員の学び直し支援の機会を提供し、長期的な活躍を実現しています。
会社業績連動比率の高い処遇を与え、従業員の納得度の向上を目指しています。例えば賞与における会社業績を4割反映させ、会社業績に対する意識を向上させています。また表彰制度もあり、従業員の積極的な成長を促しています。
従業員持株会の加入を促進し、従業員持株会加入率を99%に向上させました。それによって従業員一人一人の経営参画意識を向上させています。
これらの結果として社員のモチベーションと貢献意欲の向上が見られました。社外からの評価では、経済産業省と東京証券取引所が共同で実施する女性活躍推進や健康経営に関する評価制度において、「令和3年度なでしこ銘柄」の選定や、「健康経営優良法人ホワイト500」に選定されるなど、実績を残しています。また、従業員数に変化はないものの、年々連結純利益を向上させていることから、従業員一人当たりの労働生産性の向上も見られます。
KDDI株式会社
通信大手のKDDIは、通信事業以外にもDX、金融、エネルギーなど様々な分野に事業領域を持ち、人材の育成に注力している企業です。そのため、人材(人財)への投資こそがイノベーションの創出に必要であると確信し、人材投資額は昨年に比べて倍増する見込みだそうです。そんなKDDIは、人的資本に対する考え方として以下のように語っています。
コロナ禍を契機に拡大した時間や場所にとらわれない働き方、ダ イバーシティ&インクルージョンの推進、人財戦略としてのリスキリ ング、人財獲得競争の激化や人財の流動性の高まりなど、労働市場 を取り巻く環境は大きな転換期を迎えています。さらに、日本政府 が公表した「新しい資本主義」では、「人への投資」の抜本的な強化が掲げられています。加速する社会変革に対応し、ハイブリッドな働き方に対応しながら生産性を向上させ、新たな価値を創出するためには、専門性を持ったプロ人財を育て、その能力を最大限に引き出し、社員エンゲージメントを向上させる労働環境が必要です。
このように、従業員のエンゲージメント向上を目的とし、以下のような様々な取り組みを行っています。
社員一人ひとりがプロフェッショナルとなることで、KDDIの持続的な成長を実現するための「KDDI版ジョブ型人事制度」を2020年8月から導入しています。職務領域を明確にする「ジョブ型」を採り入れ、成果・挑戦、能力に応じてダイレクトに報いることで「プロを創り、育てる」制度であるといえます。 KDDIは持続的な成長に向け、通信事業を軸としながら新規領域の拡大を進めているため、社員が活躍できるフィールドが広がることにも繋がります。 領域を拡大する分、より高い専門性を持った優秀な人財が必要であると考えるKDDIは、全ての社員が既存の通信事業で培った経験も活かしながら、新たな領域でも通用する能力を積極的に身に付け、外でも通用するプロ人財となることを目指しているようです。 このようにして「人財ファースト企業」=「人財を最も大切なリソ ースと捉え、経営の根幹に置く企業」への変革を実現していくという姿勢が伺えます。
KDDIは、従来の働き方からの抜本的な意識・行動変革を促し、 生産性の高い働き方にシフトするために2017年1月より労働時間に 関する指標を設定するなど、「働き方改革」の取り組みを本格的に開始し、同時に「働き方改革推進委員会」を設置しています。「KDDI新働き方宣言」のもと、 DX推進をはじめとする環境整備やKDDI版ジョブ型人事制度の導入による新たな働き方のビジョン策定など、人財ファースト企業への変革に向け、さらなる働き方改革を推進しているようです。
KDDIは、ジェンダーの平等と女性のエンパワーメントを推進することは女性の人権への理解を深めるばかりでなく、国際社会の課題解決や企業の持続的な発展につながると考えています。 そのため、中期経営戦略に反映し、経営戦略の一つとして女性活躍を推進しています。 KDDIは、女性がキャリア意識を持ち、出産・育児などのライフ イベントを迎えても活躍し続けられるよう、「女性リーダーの育成」 「経営基幹職の意識啓発・行動変革」「労働環境の整備」を中心に、 多様な人財が能力を活かし、高いパフォーマンスを発揮するための 環境整備、風土醸成を図っているようです。 また、会社の意思決定に女性が参画することが企業力強化につながると考え、女性リーダーの育成に注力しています。21.3期に導 入した新人事制度では、人事評価権限を持つ組織のリーダーならびに専門領域のエキスパートを「経営基幹職」と定義し、25.3期末までの数値目標として、女性の経営基幹職比率を15%まで引き上げ ることを掲げています。
KDDIは、DXの推進に向けて、21.3期に社内人財育成機関「KDDI DX University」を設立しました。DX人財として、ビジネスディベロッ プメント、コンサルタント&プロダクトマネージャ、テクノロジスト、デ ータサイエンティスト、エクスペリエンスアーキテクトという5つの専門領域を定義して育成しているようです。ジョブ型での専門領域として人事制度に組み込まれているのが特徴で、24.3期までにグループ全体で DX人財を約4,000人に増やすことを目標にしています。また、25.3期までにDX基礎スキルを全社員が習得し、全専門領域でのプロ人財比率を30%まで 引き上げることも掲げています。これらの取り組みの結果、注力領域への要員シフトを推進し、DXを中心に事業戦略を推進するための組織力を最大化しているようです。
人ひとりがキャリアを拡大、深耕し、一人ひとりのキャリアが融合することでイノベーションを創出することを目的とするものです。 社員はシステム上で保有する専門スキルや関心分野、キャリア志向を表明し、上司との1on1によるキャリア計画の立案、自身にマッチ するロールモデルやキャリアマップの検索、評価・人財レビューによるギャップ分析、公募や社内副業も活用した配置・職種転換、マッチングのサイクルを通じて、自律的なキャリア形成を行えるようです。 新人事制度の目的・方針に沿ったこのシステムの活用により、企業の持続的成長とともに社員の成長を実現させようとしています。
以上の取り組みを参考にして、人的資本の取り組みにチャレンジしてみてください。